在米民主化運動団体に潜む中国スパイの摘発

 中国は、国外における民主化活動を阻止しようとして各種の情報収集や「越境抑圧」を仕掛けています。今回は、2022年3月16日に米国司法省が広報した事件の中から、王書君のスパイ活動と検挙に至る経緯を、起訴状や広報資料そして報道を基に見てみましょう。なお、王書君はニューヨークの中国民主化団体の幹部として10年間以上に亘って内部に潜伏した中国スパイです。この敵対的団体の中にスパイを送り込むというのは、中国共産党の古典的な手口です。

(1)王書君(ワン・シュジュン、逮捕時73才)のスパイ活動

 王書君は、米国ニューヨーク市に住む有名な民主活動家で、2006年には中国民主化を目指す団体である胡耀邦・趙紫陽紀念基金会の共同設立者となり、事務局長を経て、2021年4月には副会長に就任しています。当然ですが多くの著名な民主活動家と交流していました。その王書君が、2022年3月16日に中国のスパイとして逮捕されたのです。その後、同年5月17日に、王は中国国家安全部の担当官4人と共に起訴されました。担当官4人とは、青島市国家安全局の呂可清(ルー・ケチン61才)と紀傑(ジー・ジエ50才)、広東省国家安全局の賀鋒(ヒー・ファン49才)と李明(リー・ミン40才)であり、同日指名手配されました。

 王書君は、青島市の青島(社会科学)大学で教授をしていましたが、天安門事件後の抑圧から逃れて、1994年にニューヨークのコロンビア大学の客員研究者として渡米、その後、第二次世界大戦の戦史研究の卓越教授として米国の永住権を取得し、2003年には米国に帰化しました。

 ところが、王書君は遅くとも2005年以降、ニューヨークの華人社会における地位を利用して、内外の中国民主活動家、反体制派、人権指導者などの情報を収集して中国の国家安全部に提供していたのです。情報は、活動家の発言内容、活動内容、電話番号その他の情報であり、また対象者には、香港の民主活動家、台湾独立派、ウイグルやチベットの活動家も含まれす。例えば、王書君は香港の著名な民主活動家である何俊仁(アルバート・ホー)についても情報を提供しましたが、何俊仁は香港立法会の元議員で、「香港市民支援愛国民主運動連合会」の元主席であり、2020年香港で逮捕され2021年5月には有罪(拘禁刑)を宣告されています。

 王書君と担当官との連絡方法は、次の三つです。①訪中の際の面接。②メッセージ・アプリによる通信。但し、メッセージ・アプリによる直接連絡は暗号通信にして最少に留め、担当官の連絡先も携帯電話に登録せず紙のアドレス帳に記録していました。③ウェブ・メール・アカウントの下書き機能を使用した情報報告。王書君が著名活動家との会話内容や民主団体の活動内容などを記録し、国安部の担当者は同一のウェブ・メール・アカウントを見ることによって、情報報告を受けていたのです。例えば、2011年から2014年の間にウェブ・メールを使用した情報報告は163件の項目があったそうです。

(2)逮捕に至った経緯

 次に、この王書君の逮捕に至る経緯を見てみましょう。 先ず2017年8月、王書君はニューヨーク市内のレストランでFBIの任意の事情聴取を受けていますが、その際に、国家安全部その他の中国の国家安全機関との接触を完全に否定しています。また、訪中のためのビザ取得以外では中国政府職員との接触は避けているとも述べました。(これは嘘ですから、虚偽供述罪が成立します)。

 次に2019年4月、王書君は訪中して帰国の際、ニューヨークのケネディ空港で税関・国境警備局による州国審査で詳細な二次検査を受けました。そこで王書君は、国家安全部に接近されたことは全くなく、国家安全部や中国政府職員とは接触したこともなく、所持する電話には中国政府の連絡先なども登録されていないと主張しました。ところが、その後の手荷物検査によって、紙のアドレス帳には国家安全部の担当官4人を含む中国政府職員多数の連絡先、民主活動家64人の名前や電話番号、更に青島市での国安部の賀鋒との会合予定などの記述があったのです。(ここでも、虚偽供述罪が成立します)。

 更に2021年7月、FBIの囮調査官がコネチカット州ノーウィッチの王書君の自宅をいきなり訪問して、本人の本音の発言を引き出しました。囮調査官は、国安部のボス賀鋒からのメッセージを届けに来た。王はFBIの調査対象になっているという情報を得たが、王書君の電子通信機器は傍受されている可能性がある(そのために使者として来たのであるという趣旨)と申し向けたのです。王書君はこれを信じて助けを求めたので、囮調査官は、証拠となるウェブ・メール・アカウントの下書き報告など罪証となる情報を消去できると話しました。これに対して王書君は、通信手段として2005年以降ウェブ・メールの下書き機能を使って月2~3通の報告を作成してきた、どうか記録の削除を手助けして欲しいと頼んだのです。そして国安部の担当官4人との連絡に使用してきたメール・アカウントのパスワードを提供して報告を全て削除すると共に、更にニューヨーク市内にある別宅アパートから電子機器を回収してきて欲しいと依頼したのです。

 なお、王書君は囮調査官との会話で、賀鋒の指示に従って、香港の民主活動家・何俊仁から情報を聞き出すために同人と家族を会食でもてなして、4000ドル以上を使ったこと、その会話の要点は報告したなどとも話しました。(以上の供述によって、ウェブ・メール・アカウントが王書君のものであることが立証されると共に、王書君が国安部担当官の指示を受けて、即ち外国代理人として活動してきたことが明白に立証できるのです。)

 その後、2021年8月にFBI担当者は、王を取り調べて王の自供を引き出すと共に、2022年3月16日に王のニューヨーク市内とコネチカット州内の二個所の住居を捜索して、各種の証拠物を押収しました。

(3)起訴罪名

 王書君の起訴罪名は、①外国代理人登録義務違反(合衆国法典18篇951条)、②虚偽供述罪(同1001条(a)(2))、③人定情報の犯罪使用罪(同1028条(a)(7)等)です。①の外国代理人登録義務違反の起訴事実は、物的証拠の関係から2011年から2021年の期間の活動が対象とされ、②の虚偽供述罪は2019年4月の入国審査での税関・国境警備局員に対する供述が対象とされています。③の人定情報の犯罪使用罪は、①の外国代理人登録義務違反という連邦法違反の活動のために、民主活動家の人定情報や電話番号情報などを保持したり移管したりした行為が問われています。罰則は、①が10年以下の拘禁刑、②と③がそれぞれ5年以下の拘禁刑です。 また、王書君と共に、中国国安部の4人が、外国代理人登録義務違反の共謀罪で起訴されています。

 なお、我が国では、外国代理人登録義務違反、人定情報の犯罪使用、虚偽供述罪などの罰則がありませんので、残念ながら、王書君のようなスパイ活動を取り締まれないということになります。

(4)本事件に見るスパイ取締りの特徴

 本件事案を通して、米国のスパイ取締り手法と適用法令に幾つかの特徴が見られます。 第1に、税関・出入国管理当局とFBIの密接な協力です。2019年に王書君が訪中から帰国しての税関・国境警備局による入国審査で、詳細な取調べを受け、その際の虚偽供述が、王書君の検挙に貢献しています。常識的に考えて、これは当然FBIからの情報提供と依頼を受けて実行されたものと推定できます。これだけの協力関係が、米国の治安関係諸機関の間には成立しているのです。実に羨ましい限りです。

 第2は、囮調査・囮捜査です。2021年にFBIの囮調査官、つまり中国系の青年と見られる人物が中国国家安全部の使者を偽装して王書君を訪問し、そこで必要な情報を聞き出しています。囮調査・囮捜査はスパイ事件のような組織犯罪では不可欠な調査・捜査手法です。行政傍受も秘密捜索も認められない我が国で、囮調査や囮捜査さえ認めないというのは、世界の奇観としか言いようがないでしょう。

 第3は、外国代理人登録義務違反です。特定秘密保護法で、特定秘密を違法に入手すれば、外国のスパイを摘発できるようになりました。しかし、立証はなかなか困難です。特定秘密の入手、そしてその入手方法が欺罔・暴行・脅迫などの不正取得行為を伴うものであることを立証する必要があります。それに対して、外国代理人登録義務違反罪では、外国のスパイであることさえ立証できれば、他の違法行為を立証しなくても検挙可能となるのです。なお、本事件の公開情報からは明瞭ではありませんが、通常本罪の立証で最も活用されているのは行政通信傍受です。外国諜報機関とスパイの間の通信を傍受することによって、その関係(代理人関係)を探知立証するのです。行政通信傍受制度が存在せず、司法通信傍受も極めて限定的な我が国では、検挙は容易ではありませんが、それでも外国代理人登録義務違反があれば、無いよりはましになるでしょう。

 第4は、虚偽供述罪です。本件の検挙でも虚偽供述罪が適用されています。虚偽供述罪は、国の公務に関連して虚偽の供述を抑止し、処罰する極めて重要な罰則です。例えば、米国で秘密情報にアクセスするためにはセキュリティ・クリアランスが必要ですが、申請のための本人質問票に虚偽事項を記載したり逆に必要事項を記載しない場合には本罪が成立します。米国の本人質問票には、違反するとセキュリティ・クリアランスの拒否のみならず、処罰や免職もあり得ることを4回も繰り返して警告し、最後には申請者に理解したことを確認する署名まで求めています。他方、我が国では、特定秘密保護法の本人質問票には、必要事項を記載せず又は虚偽事項を記載したことが確認された場合には「適性評価の結果に影響を及ぼすことがあります。」とあるだけです。我が国との違いを感じます。

(5)本事件で気付きの点

 最後の本事件に関連して、何点か気付きの点を述べたいと思います。 第1は、中国インテリジェンス手法の特徴、在外華人の利用です。中国の国家安全部は、国家体制の保衛の他、防諜と対外諜報も担当しており、中央政府のみならず省や市レベルの国家安全局も、対外諜報に従事しています。その対外諜報の手法の一つが、在外華人を使ったヒューミントです。王書君は、渡米後もたびたび故郷の中国を訪問していたため、故郷訪問の際に(親族関係を利用した脅迫などの手段で)リクルートされたものと推定されます。王書君は、民主団体の「胡耀邦・趙紫陽紀念基金会」結成(2006年)前の2005年には既に中国国安部の協力者となっていて、民主化団体の結成に参加して、その後16年間以上主要幹部として活動しながらスパイ活動をしていたのです。中国諜報の実力は侮れません。

 第2は、ニューヨーク市の華人社会で王書君を疑う人はいなかったのかです。実は、王書君を疑う人はいたのです。王書君は行事などで必要のない写真撮影に熱心で、王書君が出席する行事には努めて欠席する人もいたそうです。今回の事件化の発端は、華人社会からの通報であった可能性があります。

 第3は、FBIによる事件化に時間がかかった背景です。経緯から判断する限り、FBIが最初に王書君の事情聴取をした2017年にはFBIの要注意対象になっていた筈です。また、これは私の推定ですが、2019年の税関・国境警備局による入国審査の後は、王書君はFBIの監視対象とされた筈であり、対外諜報監視法FISAに基づきFBIの行政傍受対象になっていたと考えます。何故、事件化が2022年と時間を要したのか。これも私の推測ですが、結局、王書君がウェブ・メール・アカウントに記載した情報の多くが、ニューヨーク在住華人の多くが知り得る情報であって、秘密情報というようなものは殆ど見られなかったからではないかと考えます。また、中国の国家安全部からの資金提供も把握できなかったと思われます。勿論、2019年の税関・国境警備局による入国審査における王書君の供述で、虚偽供述罪自体は成立するのですが、悪質性の立証が弱いと判断されていたのではないかと思います。しかし2021年に至り、王が「胡耀邦・趙紫陽紀念基金会」の副会長に就任し、他方、王書君が情報を提供した民主活動家・何俊仁が香港で拘禁刑の有罪判決を受けるなどの状況があり、FBIとしては囮捜査・囮調査で王書君から何処まで供述を引き出せるか、同年7月に囮調査で勝負をしてみたのだと思います。そこで王から必要な供述を引き出すことができ、事件化に進んだのであろうと推定します。

 ところで、我が国華人社会にも王書君のような人物がいる可能性は高いと思いますが、我が国はどう対処しているのでしょうか。

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