~外国政府代理人届出義務違反罪(刑法951条)~
米司法省は、2026年5月11日、無届で中国政府の指示を受けて親中国の政治宣伝をしていたとして、カリフォルニア州内の中国系市長アイリーン・ワンの起訴と司法取引を発表しました。 同日の司法省発表[1]や司法取引合意書(plea agreement) [2]、そして各種の新聞報道を基に、事案の概要を紹介します。
注目して頂きたいのは、活動内容は中国のための無届の政治宣伝ですが、適用罰条は外国代理人登録法(FARA)違反ではなく、外国政府代理人届出義務違反罪であることです。
1 アイリーン・ワンの人物像
アイリーン・ワン(56才)は、報道によれば、中国四川省成都市の生れで、1995年に中国から米国カリフォルニア州に両親と共に移住してきた。父親は四川省で内科医をしていたが、米国に来て南カリフォルニア大学に職を得た。また、母親は漢方と針の医師であった。ワンは、いつかの時点で米国に帰化しているが、その他の経歴は不詳である。
現在アイリーン・ワンは、ロスアンゼルス市の東方約20キロのアルカディア市に居住し、地域活動家として頭角を現しつつあった。アルカディアは裕福な郊外都市で、2020年の人口が約5万6千人であるが、その65%はアジア系であり、特に中国系富裕層の人口が急増した都市である。
ワンは、2020年末から2022年にかけて、当時の婚約者ヤオニン・スンと共に、地域の中国系米国人向けのニュース・サイト「米国ニュース・センター」を運営していた。その後、ヤオニン・スンを選挙資金責任者として、2022年11月にアルカディア市政委員会選挙に立候補して初当選。同市の市政委員は5人で、委員が輪番で市長を担う制度をとっており、市政委員会の下にはシティ・マネジャー(行政管理者)が置かれている。ワンは、2026年2月から市長を務めていたが、5月11日の起訴公表と同時に、市長と市政委員の職を辞任している。
2 親中国の政治宣伝活動
ワンの活動の主体は、ニュース・サイトでの親中国の政治宣伝活動であり、 司法取引合意書によれば、犯罪事実は次の通りである。
ワンは、2020年末以前から早くとも2022年以降の間、司法長官への事前の届出をせずに、中華人民共和国(以下、中国)の代理人として活動した。特に、中国政府職員(複数)の指揮と統制の下、他の在米の人物(複数)と協調して、親中国の宣伝活動をして、中国の利益を図ろうとした。このために、ワンとヤオニン・スン(本年2月、4年間の拘禁刑の宣告を受けている)は共同して2020年末から2022年まで、地元中国系住民向けウェブサイト「米国ニュース・センター」を運営した。ワンとスンは、中国政府職員(複数)からの指示を受け、ウェブサイトに親中国の記事を載せ、時には、中国政府職員の了解を得てその他の親中国記事を流布させていた。
司法取引合意には次の具体例が記載されている。即ち、2021年6月10日中国政府職員(その他の資料から推定すると、在ロサンゼルス総領事館員、以下「総領事館員」)は、暗号化通信アプリのWeChatのグループチャットで、ワンと他の数人に対して、中国総領事のロサンゼルス・タイムズ紙への寄稿文のリンクを送信した。寄稿文は、「新疆ウイグル問題についての中国政府の立場」を説明したもので、「新疆ウイグル自治区でジェノサイド(大量殺害)が行われたことはなく、また、綿花栽培において強制労働は存在しない。この種の噂の流布は、中国政府を貶め、新疆の安全と安心を破壊し、地域経済を弱体化し、中国の発展を阻害するものである」旨の内容であった。 ワンは、上記チャット受領後数分で、自分のウェブサイトに寄稿文へのリンク記事を掲載し、総領事館員にそれを報告した。また、グループチャットの他のメンバーも同様に対応したところ、総領事館員から「皆さんの迅速な対応に感謝する」旨のチャットが送信された。
更に8月20日には、ワンと他に3人のグループチャットの仲間が、各人のウェブサイト上の同寄稿文へのリンク記事を共有し合ったところ、総領事館員は、報告を感謝する旨のメッセージを送った。更に、総領事館員からワンに対して直接、リンク記事を編集して特定企業の名前を削除して欲しいとの指示があった。これに対して、ワンは、了解と回答し、次に、修正記事のリンク情報を総領事館員に送信した。更にワンは、当該リンク記事の閲覧数が1万5128件に達していることを示すスクリーンショットを送信したところ、総領事館員からは、「素晴らしい」との反応があり、ワンは「指導者に感謝」と返信している。
更に8月22日に総領事館員からワンの20日のリンク記事のスクリーンショットが送られてきた。そこでワンが「修正の必要ありや」と質問したところ、総領事館員から記事中の特定の写真を削除して欲しい旨の指示があり、ワンは、「了解。削除する。」旨返信。修正記事のリンクを「削除済」として送信した。これに対して総領事館員は称賛する絵文字を返信してきた。
また、同年11月27日に、ワンは、ジョン・チェン(中国諜報機関の協力者。2024年11月に他事件で20ヵ月の拘禁刑を宣告されている)に対して、暗号化通信アプリWeChatを使用して、ワンのウェブサイト記事のリンク情報を送信して、今夜は既に多く送り過ぎて一時的に送信できなくなっているとして、ワンの代わりに同記事の拡散を依頼した。これに対して、ジョン・チェンが躊躇したところ、ワンはこれは中国外交部が送って欲しいと考えるものであると通信したのである。ワンの記事とは、米国に対して中国の民主的な権利を尊重するよう中露両国大使が望んでいる旨の記事である。
3 適用罰条
ワンは、2026年3月30日にカリフォルニア州中央地区連邦検事局と司法取引合意書を結び、外国政府代理人届出義務違反罪(合衆国法典18篇951条)1罪を認めた。ワンは、5月29日に裁判所における罪状認否で有罪答弁をした。刑の宣告記述は10月6日に指定された。951条違反の刑罰は、10年以下の拘禁刑、25万ドル以下の罰金刑である。
注目点は、本事案は政治宣伝活動であるが、適用罰条は、外国代理人登録法(FARA: Foreign Agents Registration Act of 1938、合衆国法典第22篇外交・対外関係611―621条)の登録義務違反ではなく、合衆国法典18篇刑事法951条違反であったことである。
4 反響
現職市長の起訴と司法取引合意が突然公表されたことの反響は大きく、全米で、中国による影響力作戦として報道された。
本事案の公表に当たり、司法省次官補(国家安全保障担当)ジョン・アイゼンバーグは、「米国で公選の職にある者は、彼らが代表する米国民のためにのみ活動すべきであり、中国政府職員からの指示を受けそれらを実行していた者が公職にあることは深く憂慮すべきことである」と述べた。また、カリフォルニア州中央地区連邦検事局次席のビル・エサイリーは、「米国内で秘密裡に外国政府の指示を受けて働く者は、我々の民主政治を毀損しているのである。この司法取引合意は、我々の諸制度を堕落させようとする中国の試みから、祖国を守ろうとする我々の決意の最新の成功例である」と述べた。更に、FBI副長官補ローマン・ロザフスキーは、「アイリーン・ワンは、秘密裡に中国政府の利益に奉仕していた。外国政府の意を受けて我々の民主政治に影響を及ぼそうとする者は、探知され、捜査され、訴追される。本事件は明確な警告である」と述べている。
5 注目点
(1)総領事館を拠点とした影響力作戦
司法取引合意書からは、中国政府による対米情報作戦、影響力作戦の一端が理解できる。即ち、在ロサンゼルス領事館の館員が、地域の中国系米国人を組織化して、彼らのウェブサイトを通じて、秘密裡に親中国の政治宣伝を拡散していることである。その国に居住する中国系や中国籍の人々を利用した情報作戦、影響力作戦は、米国のみならず、我が国他の諸国で行われていると考えるべきである。残念ながら、我が国では米国と異なり、このような活動を処罰する法令が存在しない。
(2)FBIの捜査手法
本事案で、FBIは、アイリーン・ワンと総領事館員、ジョン・チェンとの間のWeChatの暗号化通信アプリでの通信内容を把握して証拠化していた。その情報収集手法は明らかにされていない。
WeChatの暗号化通信アプリは、端末間暗号ではないので、企業サーバーにはデータが保管されている可能性があるが、WeChatの経営母体は中国企業Tencentであるので、企業から通信データを入手した可能性は低い。入手経路として考えられるのは、ワン本人の端末を押収してデジタル・フォレンシック技術を使って分析した可能性、共犯者であるヤオニン・スンやジョン・チェンの端末を分析した可能性、iCloud・Googleバックアップ・Macバックアップなどにデータが残存していいてApple、Google、Microsoftなどから入手した可能性などである。
外国政府代理人届出義務違反罪の捜査では、外国政府職員からの指揮統制関係を解明することが必要なので、このような捜査技術は不可欠となる。
[1] DOJ, “Arcadia, California, Mayor Federally Charged with Acting as Illegal Agent of the People’s Republic of China,” Press Release, 11 May 2026.
–USAO, Central District of California, “Arcadia Mayor Federally Charged with Acting as Illegal Agent of the People’s Republic of China,” Press Release, 11 May 2026.
[2] United States v. Wang, Plea Agreement, No. 2:26-CR-00186-WLH, Dkt. 5 (C.D. Cal. Apr. 1, 2026),
【註:ワンは5月29日に有罪答弁をしたので、所要の加筆をしました。】