最近、中国で邦人が反スパイ法違反で検挙される事案が増えています。その実態と背景、そして防御法について考えてみます。
1 中国における日本人の「反スパイ法」検挙の増加
日本経済新聞2025年7月26日付の報道によれば、中国は反スパイ法を施行した2014年以降に邦人17人を拘束しましたが、その内9人の罪状について、日本の情報機関に報酬と引き換えに中国の国内情報を提供したと認定していました。この9人の内判明している5人について、列挙すると次の通りです。
〇 アステラス製薬の日本人男性(60代):2023年3月拘束(北京市)。2025年7月に懲役3年6月の有罪判決。情報提供先は公安調査庁。
〇 日本人男性(50代):2021年12月拘束(上海市)。2025年5月に懲役12年の判決。判決文で公安調査庁への協力を名指し。
〇 日中青年交流協会のS理事長:2016年7月拘束(北京市)。2019年に懲役6年の判決。判決文で公安調査庁の代理人と認定。
〇 介護関連の日本人男性:2019年拘束(湖南省)。懲役12年。
〇 日本人男性(高齢):2015年拘束(浙江省)。懲役12年。
これらの人々は、一体どのような形で、日本の情報機関(公安調査庁)に協力していて、どのような行為が違法とされたのでしょうか。この点については、有罪判決を受けたS氏が、自分の体験を積極的に発言していますので、彼の事例を見てみましょう。
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2 日中青年交流協会のS理事長の例
(1)経緯(拘束、取調、起訴、有罪、服役、帰国)
S氏は、1980年代から日中友好活動をしてきた著名な中国通で、訪中回数は200回を超えており、2015年に日中青年交流協会を立ち上げた中心人物でした。また、北京外語大学他で教員もし、教え子には中国外交部の官僚も多数います。更に、中国共産主義青年団の国際部門とも関係を持っていたそうです。 さて、S氏が逮捕拘束され懲役刑を科せされた経緯を見てみましょう。
S氏は2016年6月にシンポジウムに参加するために北京を訪問し、7月15日に帰国するため北京空港に着いたところで、国家安全部によって身柄を拘束され拘禁施設に収容されました。中国ではこれを「指定居所監視」と言うようですが、取調目的の実質的な勾留でした。S氏はそれから7か月間も、遮光カーテンによって太陽光の見えない部屋に一人で監禁され、自由に発声することも許されず、取調を受けたのです。
S氏が取調の過程で感じたのは、国家安全部は、彼が2013年12月4日に中国外交部の高官と会食した際の会話を容疑事実としているという事でした。会食の直前に、韓国政府が、北朝鮮の実力者・張成沢(金正恩の叔父。金正日の実妹の夫)が処刑されたと推定する旨の発表をしており、S氏は、外交部高官に「これについてどう思うか」と尋ねたところ、同高官は「知らない」と答えただけだそうです。
2016年7月に拘束されたS氏は、翌2017年2月16日に、同じ施設群の別建物に移送され、反スパイ法で正式に逮捕され、公式の勾留に移行しました。こちらの建物では、他のスパイ容疑者やテロ容疑者と相部屋で話すこともでき、窓に遮光カーテンもなく、居心地は改善されたそうです。2017年8月に裁判が開始され、2019年5月に懲役6年の有罪判決が下り、控訴したものの2020年10月には控訴審で判決が確定しました。その後、北京市第2号刑務所で服役し、2022年10月11日に漸く釈放され、帰国したのです。2016年7月に拘束されて以来、6年以上が過ぎていました。
(2)事実関係の認識の違い
この事件の判決書(2019年北京市高級人民法院刑事裁定書)の分析によれば、犯罪事実として認定されたのは、S氏が「日本のスパイ組織、公安調査庁の代理人の任務を引き受け、長期的に中国の国家情報を収集報告したこと、中国政府関係者に接触したこと」です。判決書には公安調査庁の調査官4人の実名が記載され、彼らから任務を受けたと認定されています。S氏によれば、取調の時に、公安調査庁職員の身分証の写真(1シート10人分)を複数シート提示され、面識のある調査官を特定するように指示されたそうです。
それでは、S氏と公安調査庁との関係は、実際はどのようなものだったのでしょうか。それについては、2025年9月24日付の日本経済新聞によるインタビューで本人が語ったところでは、日本で月1回程度のペースで会食をし「あくまで交通費として数万円を複数回渡された」だけであり、「お金を渡すからこの情報を聞いてきてほしいということはなかった」と情報収集の依頼を受けてはいないと強調しています。 つまり、S氏の認識では、公安調査庁の調査官と定期的に会って、自分の既存の知識の中からレクチャをしているだけであって、調査官の求めに応じて中国国内で何らかの情報収集活動をしている訳ではないので、スパイとされるのは心外であるという認識です。
他方、中国国家安全部の認識を推定すると、先ず、S氏は日本のインテリジェンス組織である公安調査庁の担当官と定期的に会合し情報提供をして報酬も得ている。つまり、公安調査庁の代理人であり、事実、政治的に機微な張成沢という北朝鮮の実力者の動静について外交部高官に質問をしてきている。この話の内容は、公安調査庁の担当官に通報されるのであろう。以上のように認識したものと考えられます。ここでは、「公安調査庁の代理人」性について、指揮命令の事実関係を厳密に証明することまでは要求せずに、状況からの推定も含めて認定したものと見られます。 このような「代理人」性の認定は、我が国のような自由民主主義国家においては不当な認定であると考えられます。しかし、自由民主主義国家における法律制度と、共産主義全体主義国家における法律制度の本質的な違いを考えると、中国側の解釈を単純にでっち上げと批判するだけでは済まないと考えられます。訪中者は十分な注意を要するでしょう。
(3)民間情報収集の広がり
ところで、このような形での、公安調査庁による中国通の民間人情報の収集はどの程度広く行われているのでしょうか。筆者は、公安調査庁の内部情報は持ち合わせていないので推測するしかないのですが、次の断片情報などから判断すると、広く行われている、或いは広く行われて来たと推定できます。
S氏は、先述の9月24日付の日本経済新聞のインタビューで「中国情勢に関する意見交換を目的に、中国駐在の邦人らが一時帰国した際などに接触していると指摘。『片っ端から中国通の人に声をかけるやり方は邦人の拘束のリスクを高める』と警告」しています。S氏は、公安調査庁が中国通の邦人に広汎にアプローチしていると考えているのです。 また、某県警察本部の幹部OBから聞いた話ですが、中国と取引のある企業から「公安調査庁から情報協力して欲しいとアプローチされたが、どう対応すべきか。協力して大丈夫か、教えて欲しい。」と助言を求められたそうです。 これらの事実から判断すると、中国通の民間人からの情報収集は、広汎に行われていると推定できます。
(4)中国日本商会の対応
日本商会会長の本間哲朗氏(パナソニックホールディングス副社長)は、アステラス製薬の日本人男性の有罪判決(2025年7月)に関連してインタビューを受け、「アステラス製薬の男性は、かつて日本商会の副会長も務め、中国経済に貢献した方だ。日本商会では『中国で働くビジネスパーソンたちを情報収集活動に巻き込むような行為は止めて欲しい』との声が出ている」旨を述べています。
また、パナソニック社内では「外部組織から情報収集などの依頼があったら速やかに報告してほしい」と通達を出し、社員には「基本的に受けないでほしい」と注意を喚起しています。他の会員企業にも同様の対応が広がっているそうです。 つまり、中国に進出している日本企業としては、公安調査庁による民間人情報の収集は止めて欲しい意向です。
3 諸外国での民間人の利用
さて、このようなインテリジェンス機関による民間人情報の利用は、欧米諸国ではどうしているのでしょうか。実は、欧米諸国でも広く行われているのです。一例として米国の例を紹介します。
米国の大学で使用されるインテリジェンスの教科書(Jeffrey T. Richelson, The U.S. Intelligence Community, 7th ed.)によれば、CIAの工作部門には、専ら国内で活動する「国家資源部(National Resources Division)」があり、同部には外国資源部門(Foreign Resources Branch)と国家収集部門(National Collection Branch)があります。外国資源部門の主任務は、米国の大学や研究機関等にいる外国人をリクルートすることであり、国家収集部門(旧名:国内収集部)の主任務は、科学者、技術者、経済学者、エネルギー専門家など外国と行き来する米国内の居住者からの情報の収集です。1982年には、当時の国内収集部は全米290の大学や研究所の学者や研究者900人と関係を持っており、外国で開催されるワークショップ、シンポジウムなど専門家の会合で得られる情報の提供を受けていたそうです。9.11事件の後、国内取集は再強化され、このための事務所が全米に30ヵ所ほど設置されています。CIAによるこの手法による情報収集は、主としてイランや中国に対して活用しているそうです。
また、別の元CIA工作員の回顧録(Valerie Plame Wilson, Fair Game)によれば、CIA歴代の長官や幹部には実業界から転身して来た者がおり、彼らが民間との協力の橋渡しをしてきたといいます。民間人による外国情報収集においては、石油企業の社長とか、外国事情に明るく頻繁に旅行するビジネスコンサルタントなどが協力してきたそうです。元CIA工作員によれば、CIAは米国民に特定の事項について外国における調査(情報収集)を頻繁に依頼しており、また、米国系多国籍企業の社員が米国の関心地域を訪問した場合にはデブリーフ(事情聴取)することも多々あるということです。
このように、公安調査庁による民間情報の利用は、欧米諸国でも行われている標準的な活動なのです。特に特異な活動ではありません。
4 最大の課題は秘密保全
それでは、公安調査庁の民間情報の利用の何が問題なのでしょうか。
問題は、秘密保全ができず、民間人の情報提供者に実害が生じたことです。S氏によれば、中国の国家安全部は、第1に、日本国内における公安調査庁調査官との会食の事実を把握していました。第2に、公安調査庁職員の身分証のリストを入手していました。ここにこそ問題があったのです。
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(1)秘密保全のための諸措置がなされているか。
インテリジェンス機関が民間情報を利用する際には、秘密保全のための標準的な諸措置がありますが、それらの措置が取られていたのかが、問題です。例えば、
〇 S氏との会合の秘密保全。普通の諜報機関であれば、秘密保全の確実なデブリーフィング・センターで専門家が聴取しますが、本事例では、飲食店で月1回の頻度で会食しています。これでは飲食店の従業員或いは目撃者から会合の事実が漏洩する可能性があります。
〇 庁内会計書類等におけるS氏の秘匿。会食費用や謝礼金などの支出に関する会計書類は、会合した担当官以外の者が目にする機会がある訳ですから、当然、S氏の名前は記載されていてはいけない訳です。
〇 情報報告書におけるS氏の秘匿。S氏から聴取した情報は、当然、報告書にまとめられたと考えられますが、情報報告書にはS氏が特定され得るような情報は削除されていなければなりません。いわゆる情報の「サニタイズ」であり、「サニタイズ」されていたのか、その技術は十分であったかです。
〇 協力して頂いている民間人の人定事項の秘匿。民間人の名前の一覧表などを作成しないのは当然として、会合した担当者も民間人にコードネームを付すなどして、極力、人定事項が流出しないようにします。(第二次世界大戦の末期から、米国のシギント機関は、ソ連KGBの暗号解読に取り組み解読に成功して、KGBモスクワ本部と在米ソ連KGB間の秘匿通信の内容を把握しました。その結果、米国内にはソ連の協力者が約350人程度いることが判明しましたが、全てコードネームを使っていました。そのため、FBIが参加して、通信内容を分析しては協力者を特定する大作業を実施しましたが、人定を特定できたのは半数以下の150人程度でした。)
以上は、秘密保全のための諸措置の基本的且つ代表的なものですが、これらの措置が、しっかり取られていたのでしょうか。
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(2)情報漏洩源は探知処理できたのか。
さて、中国の国家安全部は、日本国内における公安調査庁調査官との会食の情報、そして、公安調査庁職員の身分証のリストを入手していましたが、この情報漏洩源は特定されたのでしょうか。
情報漏洩源を推定すると、これら二つの情報の情報源としては、第1に公安調査庁内に中国国家公安部の協力者が居て情報を漏洩した、或いは第2に国家公安部或いはその指揮下のハッカー集団が公安調査庁の情報システムに侵入して情報を窃取した、という二つの可能性が考えられます。公安調査庁の身分証に関するデータ・システムは、インターネットと接続されていない閉鎖系システムとされていますが、それとても絶対に安全と言いう訳ではありません。
報道で見る限り、情報漏洩源が特定されたという報道は目にしません。ということは、民間側から見れば、公安調査庁の情報保全態勢が回復されたという確証が得られません。公安調査庁への協力には依然としてリスクが残されていると考えざるを得ないということになります。
インテリジェンス機関による民間情報の利用には、細心の注意を払う必要があるのです。
(以上)