中国は多様な方法で経済スパイ活動を展開していますが、今回はその一つ「海帰創業」を取り上げます。「海帰」とは中国語でウミガメが産卵のために自分が生まれた場所に帰って来ることですが、これから転じて「海帰創業」とは、海外での勤務経験や留学で得た知識やスキルを活かして帰国して新たな事業を立ち上げることを指します。 「海帰創業」自体は犯罪ではありませんが、勤務先の企業秘密を盗用して起業すれば、これは犯罪です。その実例として、GEパワー社員の中国人エンジニアが、2023年に経済スパイと企業秘密窃盗で拘禁刑2年の判決を受けた事例があります。本事件の起訴状や米国司法省の広報を基に、「海帰創業」による経済スパイの実態を見てみましょう。
なお、本事件で注目されるFBIの捜査手法は、被疑者らのメッセージアプリを使った暗号通信を解読して証拠化していることです。
1 事案の概要と判決
(1)関係者と関係企業
本事件の主犯は、鄭シャオチンZheng Xiaoqing(2023年4月時点で60才)と張ジャオシーZhang Zhaoxi(同50才)の2人です。鄭は、陝西省西安市にある西北工業大学を卒業後、米国マサチューセッツ工科大学でターボ機械(ターボマシナリー)分野を研究し米国で就職していました。そして2008年から2018年までGEパワー社(本社ニューヨーク州スケネクタディ郡)で、タービンの密封技術のエンジニアとして勤務していました。鄭の居住地は、GEパワー社本社のあるスケネクタディ郡です。張は、鄭の妻の甥で中国在住です。 鄭と張は、2016年4月に遼寧天翼航空科技公司と南京天翼航空科技公司という2つの会社を中国国内に設立しました。両社は、形式的には別会社ですが、同一の企業ロゴを使用するなど実質的には同一企業の別部門ともいうべきもので、タービン部品の開発製造を分担して事業としていました。遼寧公司が主として製造担当、南京公司が主として研究開発担当です。
鄭は、これら会社の事業のために、2016年から2018年の間にGEパワー社のタービン技術に関する企業秘密を何回にも亘って盗み出していたのです。正に、自分が勤務する企業の企業秘密を盗んで「海帰創業」を実行していたのです。
なお、鄭は起業に関して、2016年2月GEパワー社に対して「中国に兄弟と小企業を設立する。企業は配管継手やベアリング・オイルシールを生産するもので、自分がGEパワー社の前に勤務していた企業での経験を活かすものである。」と虚偽の説明をして許可を得ていました。その際、GEパワー社の法務担当者からは、同社の知的財産、企業情報、ノウハウを決して使用してはいけないと指摘を受けていました。
(2)逮捕と判決
鄭は、2018年8月1日に逮捕され、翌2019年4月18日に起訴されました。そして、2022年3月31日に陪審裁判により、経済スパイ2罪(合衆国法典第18篇1831条)、企業秘密窃盗2罪(合衆国法典第18篇1832条)で有罪評決が出されました。罪状は、中国政府、鄭らが設立した2つの会社、更に瀋陽航空航天大学など関係組織の利益を図るために、GEパワー社のタービン技術に関する企業秘密を盗んだというものです。2023年1月3日に科刑の宣告があり、拘禁刑2年、出所後の保護観察1年、罰金7500ドルと宣告されました。
2023年の科刑宣告を受けて、司法省の国家安全保障担当の司法次官補マシュー・オルセンは「本事件は教科書的な経済スパイ事件である。鄭は、その地位を悪用し、雇用主を裏切り、中国政府と共謀して革新的な米国の技術を盗んだのである」と述べています。また、FBIの防諜担当の部門長(Assistant Director)アラン・コーラーは、「鄭は中国の『千人計画』のメンバーであり、米国企業の専有情報を盗んで中国に送った。今日の科刑宣告が、FBIは中国政府と協力して米国の企業秘密を盗む者の追及を続けるという警告となるだろう。」と述べています。
2 GE社のタービン技術
GE社はタービン技術で世界最高水準にあり、そのジェット・エンジンなどタービン技術は中国の経済スパイの標的となって来ました。タービンには3つの類型があります。蒸気タービン、ガス・タービン、航空エンジン(ガス・タービンの一種)です。蒸気タービンは蒸気を動力に変換するのに対して、ガス・タービンと航空エンジンは、燃料と空気の混合気の燃焼によって動力を得ています。タービン技術は、航空機、発電その他幅広い分野で使われる重要技術であり、「中国製造2025」の重要産業分野10分野の中でも複数の分野に関連する重要技術です。
GE社はこのタービン技術に優れており、子会社のGEパワー社でガス・タービンと蒸気タービンを製造し、GEアビエーション社で航空エンジンを製造しています。このタービン・エンジン技術においては、ガスや蒸気の流体の密封技術が、エンジンの効率を上げるためにも、寿命を延ばすためにも重要な技術であり、鄭はこの密封技術の専門家です。なお、ガス・タービンと蒸気タービンは、共通点も多く、多くの同一部品や類似部品を使用しています。鄭の直接の担当は蒸気タービンですが、蒸気タービンの技術はガス・タービンにも応用可能だそうです。
3 GEパワー社による探知
GEパワー社は、企業秘密を守るために各種のセキュリティ措置を採っており、鄭による企業秘密の持出しを探知します。 先ず、2017年11月頃から12月頃、GEパワー社は、鄭の業務用コンピュータに大量の暗号化ファイルが保管されているのを発見しました。使用されていた暗号ソフトウェアはスウェーデン社のAxCryptで同社では使用していないものです。そこで、GEパワー社は、どのような情報が暗号化されているのか、暗号化ファイルが外部に転送されているのか、などを究明するために鄭の業務用コンピュータに監視ソフトウェアを設置しました。
そして監視をしていたところ、2018年7月5月、鄭が、暗号化ファイル40件を鄭の執務室のデスクトップ・コンピュータに転送したのを確認しました。転送ファイルは、タービンの密封技術に関する技術情報であり、GEパワー社の専有情報で秘密情報でした。
鄭は次に、ステノグラフィ技術を使って風景写真の中にファイル情報を隠匿して、その上で風景写真をGEパワー社提供の自分のメールアドレスから、Hotmailに設定した個人用メールアドレスに送信しました。GEパワー社外に持ち出したのです。
その後2018年8月1日に、FBIが捜査を遂げた上で、鄭をインタビュー(訊問)したところ、鄭は7月5日以前にも10回近くGEパワー社のデータを社外に送信した事、その際にステノグラフィ技術を使用した事、鄭の中国内企業は中国政府から補助金を受領している事を認めました。
4 FBIの探知した事実関係
起訴状には、鄭と張の間の通信内容を主体に鄭による経済スパイ行為、企業秘密窃盗行為の経緯が詳しく記載されています。これらの事実関係の多くは、FBIが通信傍受によって探知したものと推定できます。
(1)事実関係の概要
2016年1月から2018年7月までの間、鄭と張は頻繁に連絡を取り合っており、起訴状には40日分以上に亘る通信の内容が記述されています。両者間の通信は基本的にメッセージアプリの暗号化通信を使用しており、どういう訳か、鄭から張への通信は暗号化テキストメッセージ、張から鄭への通信は暗号化音声ファイルが多用されています。その他、GEパワー社の企業秘密の送信にはEメールが使われています。
鄭と張の通信連絡の内容は、事業展開の打合せが中心であり、遼寧天翼航空科技公司と南京天翼航空科技公司という2つの会社設立から始まって、工場の設計、製品の原料の調達、製品サンプルの製造、製品の技術図面や設計図、更には鄭の訪中や張の訪米の日程打合せなど具体的な遣り取りが続きます。その間に時々、GEタービン社の専有情報であり、企業秘密である技術データの送信が入ります。
中国当局との遣取りについての通信もあります。起訴状には省名の記載はありませんが、遼寧省と推定できる省の幹部、即ち党書記や省長、産業担当副省長の工場視察、省からの補助金5千万元(日本円で約10億円)の話も出てきます。また、遼寧市の党書記や市長などとの遣取りも出てきます。更に、国有の瀋陽発動機研究所(通称606研究所)や中国航空発動機有限公司AECCについての遣取りもあります。前者は国有企業の中国航空工業集団有限公司AVIC傘下の航空エンジンの研究機関であり、後者は同じく国営の航空エンジンの開発製造企業です。更に、2018年7月には瀋陽航空航天大学との「戦略的協力合意」締結も出てきます。瀋陽航空航天大学は、「国防七子」ではありませんが、遼寧省と中央政府工業情報化部の国防科学技術工業局の統制支援を受けている大学です。合意の目的は、航空エンジンとガス・タービンの密封技術に係わる部品の共同開発です。
以上から、鄭と張の「海帰創業」は、タービン・エンジン、特に航空エンジン開発の観点から、中国政府や、国営企業、国立大学から、期待され支援も受ける事業であったことが分かります。
(2)GEパワー社専有情報、企業秘密情報の送信
鄭はFBIのインタビューで、GEパワー社のデータを社外に10回程送信したことを認めていますが、起訴状に具体的に記載されているのは次の4件です。
① 2017年8月22日、鄭のHotmailアカウントから張のQQアカウントへ暗号化ファイルをメール送信。送信したのはタービンの密封技術に関するブラシシール部品の製造に関する設計図。暗号ソフトはスウェーデン社のAxCryptを使用(②も同じ)。 Hotmailは米国企業のウェブメールで、2013年にマイクロソフト社のOutlook.comに移行しましたが、その後もドメイン(@hotmail.com)は使用可能です。QQとは中国企業「テンセント」社のウェブメールです。
② 2017年9月1日と2日、同じく、鄭のHotmailアカウントから張のQQアカウントへ暗号化ファイルをメール送信。送信したのはタービンの密封水準を試験するシステムに関する情報。
③ 2017年6月6日、鄭のGE社メールアカウントから、鄭のHotmailアカウントへ、新年の写真(赤色背景の竹)をメール送信。送信したのは写真であるが、写真にはステノグラフィ技術を使用してGE社のファイル2件、ガス・タービンの重要部品タービンブレードのデザイン・製造情報が秘匿されていた。
④ 2017年10月23日、鄭のGE社メールアカウントから、鄭のHotmailアカウントへ、タービンブレードに関する論考と12の付属ファイルを送信。附属ファイルの1つにタービンブレードの写真があったが、その中にステノグラフィ技術を使って、GE社のガス・タービンの燃焼システムに関する専有情報(設計図)が秘匿されていた。秘匿情報は、暗号ソフトAxCryptで暗号化した上で、更にステノグラフィ技術を使用していた(③も同じ)。
これらの事例から鄭によるGEパワー社のデータ持出しの手口が分かります。先ず、同社の業務用コンピュータ内で、鄭が持出しを図るデータをAxCryptソフトウェアで暗号化し、次に暗号化データを鄭の執務室のデスクトップ・コンピュータに送信します。更に、デスクトップ・コンピュータでは、ステノグラフィ技術を使って風景などの写真の中に暗号化データを隠匿し、その上で写真を自分のGEパワー社メールアドレスから自分のHotmailアドレスへ送信し、社外に持ち出します。最後に、写真から取り出した暗号化データを、自分のHotmailアドレスから張のQQアドレスへ送信するのです。GEパワー社内から社外に持ち出す時にステノフラフィ技術を使っているので、データ持出しの探知がより難くなっていたのです。
5 本事案の注目点
本事案での注目点を幾つか挙げます。
(1)GEパワー社のセキュリティ・システム
先ず、GEパワー社のセキュリティ・システムです。本事案発覚の端緒は、同社のネットワーク監視によると見られます。即ち、GEパワー社が、2017年末に鄭の業務用コンピュータの中に大量の暗号化ファイルを発見し、且つその暗号ソフトウェアは同社では使用していないものだったことです。GEパワー社は性善説に陥ることなく、社員の業務用コンピュータ内のデータを監視するシステムをしっかり導入していました。これは日本企業でも必要な自助努力でしょう。
(2)FBIによるメッセージアプリの暗号通信の傍受解読
次に、FBIが事件化できた要因としては、鄭のHotmailアカウントのメール・データを入手したことに加えて、本事件の共犯である鄭と張の間の通信連絡の内容を把握したことがあります。両者は2016年以降、メッセージアプリの暗号化テキストメッセージや暗号化音声ファイルを使って頻繁に連絡を取り合っていましたが、FBIはこの暗号化通信の内容を入手して、起訴状に詳細に記載しています。
FBIは、暗号化通信の内容を如何にして把握したのでしょうか。仮にFBIが、2017年末にGEパワー社からの通報相談を受けて調査・捜査に乗り出したとすれば、2016年からの暗号化通信の内容は、2017年末になって遡って入手したということになります。入手方法として考えられるのは、一つは、鄭のスマートフォンを押収してその中の記録を入手した可能性(これは鄭がスマホ内の記録を消去せずにいた場合に限ります)です。一つは、鄭の使用したメッセージアプリの暗号化通信が端末間暗号(end-to-end encryption)ではなく、サービス提供事業者のサーバーにデータが残っていた可能性です。更に一つは、端末間暗号であっても、データのバックアップがクラウドに残されていた可能性です。 FBIが何れの手法でメッセージアプリの暗号化通信の内容を把握したかは、起訴状からは分かりませんが、FBIにはこのような能力があるということです。
(3)「海帰創業」に見る中国人の動機
本事案は、経済スパイ罪を適用されています。それは、中国政府のために「中国製造2025」で重視されているGE社の優れたタービン技術を持ち出したからであり、愛国的な経済スパイ行為です。 しかし、鄭の行為が単に愛国的な行為であったのかは、疑問です。むしろ基本的な動機は、GE社で得た知識経験を活かして、故郷で創業して金儲けをするという自己利益であり、それが同時に中国の「中国製造2025」という国策にも合致していたということではないでしょうか。自己利益を動機とした「海帰創業」のための企業秘密窃盗は、潜在的な主体が多いという意味で、対処が難しいとも言えるでしょう。
(以上)