2024年7月13日、トランプ前米大統領は、ペンシルベニア州における選挙集会で、演説中に狙撃され負傷しましたが、現場を離脱して病院に収容されました。狙撃後のシークレットサービス(以下SS)の対応は、訓練通りの優れたのものでしたが、他方、無線通信、行先地警護や狙撃対策班の警護措置には課題が多く見られます。
本事件の経緯と警護措置、その問題について、SSの暫定報告書(9月20日)、議会調査委員会委員の暫定報告書(8月15日)、関係郡警察の報告書、その他多数の報道に基づき解説します。
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1 狙撃事件の概要
(1)概要
トランプ前大統領は、現地時刻7月13日18時11分頃、ペンシルベニア州での選挙集会で演説中(演説開始約6分後)に狙撃を受けました。米国は夏時間を採用しており、夕刻にもかかわらず、現地は明るい状態でした。
狙撃犯人は選挙集会の会場外北隣の建物屋上から、自動小銃で当初3発連射し、初弾がトランプ氏の右頬を掠めて右耳上部に当たったのです。狙撃を受けたトランプ氏は、その場にしゃがみこんで姿勢を低くしましたが、同時にSS身辺警護員5名が前大統領に殺到して覆いこみ、身体でトランプ氏を防護しました。狙撃犯人は、2秒の間隔をおいて更に5発連射しましたが、トランプ氏やSS身辺警護員には命中しませんでした。
この狙撃に対しては、先ず、地元郡警察のSWAT隊員が応射して、狙撃犯人が怯るんだ後に、SS狙撃対策班が銃弾1発で狙撃犯人を射殺しました。その後、「狙撃犯制圧」(Shooter is down.)の無線連絡を受けたSS身辺警護員は、二次攻撃の危険に備えて、トランプ氏の周りに人垣を作り、近くの待機車両まで誘導し、現場を離脱して病院に向かいました。乗車の際も、二次攻撃に備えて、車両の周辺を、行き先地警護員や襲撃対策班が防護しています。現場を離脱したのは18時14分で、狙撃の初弾発射から約2分30秒後です。
なお、その狙撃によって、集会参加者1名が死亡し、2名が重傷を負っています。
(2)集会会場
集会会場は、ペンシルベニア州バトラー郡の農場テーマパーク(ショーやゲームや乗馬が楽しめる場所で、キャンプも可能)内で、野外広場に柵を設置するなどして会場を設営していました。集会会場入り口では、ゲート式金属探知機によるセキュリティ・チェックが行われ、武器の所持者は入場させない警備措置が採られています。
(3)狙撃場所と狙撃犯人
狙撃場所は、演壇上の演台に立ったトランプ大統領の右方(北側)約140mの建物の屋根上です。集会会場の北隣にはAGRインターナショナルという製造企業の建物群があったのですが、狙撃犯人は、集会会場から一番遠い最北端の建物の屋根に上り、屋根上を渡り歩いて、狙撃場所となった最南端の建物の屋根まで移動しました。狙撃犯人は、この建物の北側屋根の傾斜に隠れて屋根を這い上り、その大棟(頂上部)から大統領を狙撃したのです。この建物の屋根に移ってから狙撃までは3分未満でした。140メートルという近距離で狙撃されても致命傷を負わなかったのは幸運でした。
AGRの敷地は、集会会場に隣接していますが、その敷地内への立入り規制は敷かれていませんでした。同敷地内では集会会場内のトランプ氏は見えないものの演説自体は聞こえるので、或る程度、人が集まっていたようです。
狙撃犯人は、ペンシルベニア州ベセルパーク町在住の20才の男性トーマス・クルックスです。狙撃に使用した銃は、AR15型自動小銃で元々は軍用銃だったのですが、現在のアメリカでは広く普及した小銃です。
(4)SS狙撃対策班による犯人狙撃
SS狙撃対策班は2人1組で2班が出動し、集会場の演壇の東後方数十メートルの建物3棟の内、南と北の2棟の屋根上に、監視・狙撃拠点を設定していました。SS狙撃対策班は、トランプ氏狙撃の1分半ほど前に、北方の建物の屋上に不審者がいる旨の通報を受けたようで、クルックスに約120mと近い北の狙撃対策班は、犯人のいた建物の屋上を注視していましたが、樹木のためクルックスを視認できなかったようです。また、クルックスから160mとより遠い南の狙撃対策班は、南方を警戒していましたが、通報を受けて警戒方向を北方に変更しました。しかし、クルックスが小銃をもっているとの脅威情報を得ていなかったこと、傾斜屋根が作る死角のためにクルックスを視認し難かったことなどのために、犯人の狙撃前に射撃して制圧することができませんでした。
(5)緊急病院の準備
トランプ氏は、18時14分に車列で集会場を離れ、バトラー記念病院に向かい、18時40分には治療を開始しました。狙撃で受傷してから、30分未満です。トランプ氏は、病院で診断と治療を受けてから、21時30分に病院を出発し、ピッツバーグ空港からペンシルベニア州を離れました。
バトラー記念病院では、SSから狙撃発生の急報を受けて、既定の緊急計画に従って病院を閉鎖し、トランプ氏滞在中は、SS、FBI、国土安全保障省、ピッツバーグ市警察、バトラー郡警察の人員40から50人が警備に当たったと報道されています。
(6)脅威情報
今回のクルックスによる暗殺未遂に関する事前情報は、把握されていませんでした。但し、トランプ氏を取り巻く脅威は、現在の政治情勢やトランプ氏の性格などから、高まっていると評価されており、最近も警護レベルが引き上げられたところです。
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2 米国SSの警護態勢
警護はSSだけで行うものではなく、行事主催者や州警察や市町村警察など関係機関多数によって行うものですが、それら多数の機関の活動を統括し調整するのはSSの役割です。その概略を説明します。
(1)SS身辺警護員(protective detail)
米国SSの身辺警護員は、大統領警護の場合では、先ず、大統領警護課長が常に大統領に密着同行し、それに通常3交替制の身辺警護チーム(1チーム5~6人)が加わります。身辺警護員は同じ組織に属し且つ通常一緒に行動している訳ですから、警護対象者の行動の癖を熟知した上で、円滑なチームワークが発揮できます。今回のトランプ氏にも少なくとも5人以上の身辺警護員が付いていました。
(2)SS襲撃対策班(Counter Assault Team)
万一、警護対象に対して攻撃があった場合に、身辺警護員の主任務は警護対象を守って安全な場所に退避させることです。これに対して、攻撃に対処して制圧する任務を持つのが襲撃対策班です。自動小銃などで武装しています。今回のトランプ氏の警護でも、1個班6人程度が配置されていました。
(3)車列警護
警護対象者の乗車する車両はSS担当者が運転し、SS身辺警護員、SS襲撃対策班が随行します。更に地元警察、今回はピッツバーグ市警察が白バイ部隊やパトカーを提供して車列警護と交通規制に当たったます。
(4)行先地警護
行先地警護は、州警察や市町村警察など関係機関とSS警護員が協力して行います。警護に詳しくない機関が多数の人員を提供することになるので、SS警護員はその現場での指導などの役割が期待されています。
通常、選挙集会の会場の入場規制や所持品検査などは、多くの人員を提供し得る地元警察の役割が大きいですし、今回のような立入規制区域外の狙撃適地などへの警戒要員の配置も、地元警察が分担します。今回は、ペンシルベニア州警察、バトラー郡とビーバー郡とワシントン郡の3郡の郡警察、バトラー町警察、それに国土安全保障省傘下の移民関税執行局などが参加しています。
(5)先遣サイトエージェント(site advance agent)
米国SSによる警護で重要な役割を果たしているのが、先遣サイトエージェントです。先遣サイトエージェントとは行先地の警護措置が必要な水準に達することを確保するためのSSの責任者です。行先地毎に先遣サイトエージェントが指定され、同人は、事前に何度も行先地を訪問して、行事主催者や地元警察など関係機関と調整をします。
警護は、SSだけで行う訳ではなく、関係機関が多数関わりますが、これらの関係機関は必ずしも警護の実務に詳しい訳ではありません。そこで警護の専門家であるSSの先遣サイトエージェントが事前に行先地に赴いて、同地に滞在して、関係機関による安全確保措置・警護警備措置の指導調整に当たります。
(6)狙撃対策班(Counter Sniper Team)
米国の警護では、今回の選挙集会の会場など規制エリアは、その出入りを規制し金属探知機で検査して武器の持込を許さないようにしていますが、規制エリア外では武器を持った者がいる可能性があります。 そこで、規制エリア外からの攻撃を防ぐために、目隠しをして警護対象者が見えないようにしたり、防弾措置を施したりの措置を採りますが、更に重要なのが、狙撃対策班です。
SSの狙撃対策班は、通常の軍用狙撃銃・銃弾よりも更に弾道精度の高い特殊銃や特殊な銃弾を使用し、脅威を発見した場合には即座に狙撃する訓練を繰り返しています。銃弾はホローポイント弾を使用していますので打撃が大きく、1発でも命中すれば狙撃犯人は狙撃を続けることはできなくなります。SS狙撃対策班は警護対象者の近くの高所に陣取って、警戒・狙撃を行います。なお、規制対象エリア外で一瞬でも警護対象者が狙撃可能な場所、つまりベランダ、屋上、窓については、現地住民に対してベランダや屋上には絶対に出ないよう、また、ガラス窓は絶対に開けないように、現地警察を通じて指導を行います。その際に仮に違反した場合は、狙撃対策班の狙撃を受けると警告しています。
(7)救急医療
大統領警護の通例では、大統領が負傷した場合に備えて、警護車列に救急車を組み入れると共に、行き先地毎に緊急病院を指定します。SSはその病院と事前に緊急治療のための契約或いは取決めを結んでいます。病院は警護対象者が現地に所在中は手術などの緊急措置が採れるように医師その他の準備態勢を整えて待機しています。今回のトランプ氏の警護でも、高規格救急車と救急医師が地域の緊急医療ネットワークから派遣され、また、救急病院として集会会場から約5キロと至近のバトラー記念病院が指定され、万一の準備をしていました。
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3 今回の警護措置の課題
今回のトランプ氏狙撃事件では、実は、狙撃前に狙撃犯クルックスの不審行動や脅威行動が地元警察によって把握されていました。ところが、地元警察が把握した情報が、適時にSS身辺警護員やSS狙撃対策班に伝達されていなかったのです。ここに最大の失敗があります。
即ち、地元警察の狙撃対策班員は、17時32分にはクルックスの不審行動を発見し、17時41分に郡警察指揮所の担当官に無線通信で「青年が、建物を観察すると共に測距計で演壇を方向を見ていた。同青年を見失った」旨を連絡しています。郡指揮所担当官は、これを州警察指揮所担当官に「携帯電話で」通報し、同所にいたSS担当官にも口頭で伝達されました。また、6、7人の地元警察官がクルックスの捜索を始めています。次に、18時8分台に、地元警察官が建物屋上にいるクルックスを一瞬目撃して、屋根に誰かいると無線連絡しました。郡指揮所の担当官は、18時9分に「携帯電話で」州指揮所の担当官に伝え、これはSS狙撃対策班にも「携帯電話」で伝達されています。
更に、18時10分54秒に地元の警察官が、同僚に押し上げられて屋根上を覗き見たところで、屋根上からクルックスにライフルを突き付けられて落下します。そこで地元警察官は、男が小銃を持っていると脅威情報を無線連絡しました。しかし、この連絡内容が州指揮所(と同所のSS担当官)に伝達される前の11分32秒に狙撃が開始されてしまったのです。
(1)無線通信網の構築の失敗
今回の狙撃事件では、地元郡警察のクルックスに関する情報、無線通信の内容が適時にSS警護員に共有されておらず、SS警護員の動きが常に後手に回ってしまいました。
今回の現地指揮所は、地元のバトラー郡警察の現地指揮所とSS担当官が同居する州警察の現地指揮所の2つが併存し、2つの指揮所は300m近くも離れていました。本来は同一の指揮所に現地警察もSS担当官も一緒にいるのが望ましいのです。しかし、現地指揮所が2つあっても、2つの通信系が統合されていれば問題はありませんし、実際、計画ではそうなるように、地元のバトラー郡警察の通信システムが関係する郡や町の地元警察の基幹通信系として使用され、SSにも相互交信用に無線機(複数)が準備されていました。ところが何と、SS担当官はその無線機を使用しなかったのです。更に、SS狙撃対策班も無線機(複数)を取りに来るように連絡を受けていたものの、無線機を取りに来なかったといいます。
そのため、SS指揮所もSS狙撃対策班も、SS警護員は誰も地元警察の無線通信を傍受していなかったのです。この結果、現地警察の通信内容は、地元指揮所担当官が、一々、携帯電話で州指揮所担当官に通報し、それを更にSS担当官に口頭で伝える伝言ゲームになってしまいました。これでは、情報共有に遅延が生じる上に、地元の無線通信の緊迫感は伝わりません。無線機の共有ができていれば本狙撃事件は未然に防止出来ていた筈であり、SS側にどのような理由があったのかは不明ですが、これは極めて重大な過失です。
SS身辺警護員には「脅威情報」どころか「不審者情報」自体が共有されていなかったと言います。このため、トランプ氏を未然に安全な場所に移動させるなりして、狙撃を予防することができなかったのです。
(2)SS狙撃対策班の問題
本警護では、合計4班の狙撃対策班が配置されました。SSから2班、地元警察から2班です。これら4班は、狙撃対策という共通の任務を持っていたのですから、一体として機能する必要がありました。しかし、そのための措置が採られていなかったのです。
第1に、集会当日9時から地元警察による直前の作戦会議が開催されましたが、SS狙撃対策班は参加せず、結局SSと地元の狙撃対策班の事前の顔合わせは一度も行われなかったのです。顔合わせをしていれば、要警戒場所である狙撃場所となった建物屋上の監視の分担をどうするか、屋根の一部は樹木の死角に入ることなど、課題の共有が可能であったでしょう。 第2に、SS狙撃対策班と地元狙撃対策班との間に、直接の通信系が設定されていなかったことです。直接の通信系が設定されていれば、クルックスの動向に関する情報が、SS狙撃対策班にも適時に共有されていたのです。 現時点での報道から判断する限り、この2つの失敗の責任はSS側にあります。
(3)先遣サイトエージェントの失敗
狙撃場所となったAGR敷地内の建物について、その警戒監視の必要性については、関係者が皆認識していたようです。しかし、具体的に誰がどのように警戒監視を行うかについて、詰めがなされていなかったのです。これは正にSS先遣サイトエージェントの責任です。
今回の先遣サイトエージェントの任務懈怠は、現職の際にSSとの折衝調整を経験した筆者としては、驚くばかりです。事件のあった13日当日の9時からの地元警察による直前の警備会議にも、SS先遣サイトエージェントは参加していないといいます。この会議は、警護計画の最終確認の会議であり、警護に関与する関係機関が多数に及ぶため、SSの参加は必須です。これも重大な懈怠です。
このように、今回の警護の問題は、無線通信にしろ、狙撃対策班にしろ、先遣サイトエージェントにしろ、全くSSらしくないものです。この背景には、警護対象者が増加しているのに対して、必要な人員と資源の不足があると見られます。現在、ロウSS長官代行は、人員予算の増加に向けて必死に連邦議会対策に当たっていると報道されています。
なお、我が国への教訓については、トランプ前大統領狙撃事件と警護の教訓(9月24日改訂)を御覧下さい。