漸く7月21日(日本時刻22日)に、バイデン大統領が、米大統領選から撤退しました。これ自体はインテリジェンスの研究対象ではありませんが、撤退の経緯を見ると、インテリジェンス理解にとって重要な教訓が得られます。 それは孫子の有名な一節「彼を知り己を知れば百戦殆ふからず。彼を知らずして己を知れば一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば戦ふ毎に必ず殆ふし。」に関連します。孫子はここで「彼を知り己を知(る)」ことの重要性を述べていますが、その中でも「彼を知る」ことの方が「己を知る」ことよりも難しいという命題が暗示されています。しかし、実は在りのままの「己を」客観的に知ることは難しいことなのです。それが、バイデン大統領の大統領選撤退の経緯に現れています。それではその教訓を見てみましょう。
1 バイデン大統領の立候補辞退に至る経緯
幾つかの主要な出来事の日程を見ると次の通りです。
・ 6月27日 バイデン・トランプ討論会での惨憺たるパーフォーマンス
・ 7月14日 トランプ狙撃事件
・ 7月21日 バイデン氏、大統領選からの撤退を表明
・ 8月19日 民主党大会(大統領・副大統領候補を正式決定)開始予定
バイデン大統領は、2021年初の大統領就任以来、時間を追う毎に滑舌の悪化、歩行のぎごちなさなど、外見的にも老化の進行が目立って来ていました。既に昨年の段階で、大統領は一期で辞めて、2024年選挙では後進に道を譲るべきではないかという議論も出ていましたが、バイデン氏はトランプ候補に勝てるのは自分しかいないという自負から、大統領再選に打って出ていました。
ところが、本年6月27日のCNN主催の90分に及ぶバイデン・トランプ討論会では、バイデン大統領のパーフォーマンスは惨憺たる失敗に終わりました。先ず、バイデン氏の主張は論理明晰ではありませんでしたし、トランプ氏の嘘だらけの発言に対しても適切な反論もできませんでした。更に、討論を通じて、バイデン氏の老化の顕れが際立ちました。 討論会でのバイデン氏の惨状に驚愕した民主党では、立候補辞退への圧力が次第に高まり、選挙資金の献金も低調となりましたが、バイデン大統領は立候補辞退の意向を全く示さず、選挙戦継続の意思を明確に表明し続けていました。
他方、7月14日トランプ氏は、ペンシルベニア州での選挙集会で、約130メートルの近距離から小銃による狙撃を受けて、間一髪で命拾いをしました。トランプ氏は、シークレットサービス警護員に囲まれて会場から退出する際には、立ち止まって、右腕を振り上げて聴衆に健在を誇示するなどして、強い指導者のイメージを流布するのに成功しています。米国大統領は、軍最高司令官であり、強さは重要な要件です。
一方、バイデン大統領は7月19日に至っても、再選挙継続の意思を表明していましたが、民主党内の混乱は極限に達し、35人以上の現職連邦議会議員が立候補辞退を求めるなど、最後には遂に周囲からの圧力に屈する形で、7月21日に大統領選からの撤退を表明しました。 しかし、民主党の大統領候補を正式に決定する党大会は8月19日開催であり、且つ、大統領選投票日の11月5日まで、日数は十分でなく、新しい大統領・副大統領候補には多難な前途が予想されます。
2 認知能力の低下と「己を知る」ことの難しさ
(1)今回のバイデン氏の選挙戦撤退に至る混乱の経緯を見ると、バイデン氏個人の状況を客観的に認識する認知能力の低下が伺われます。
先ず第1に、6月27日のバイデン・トランプ討論会における自己のパーフォーマンスの惨状を、バイデン氏は即座に客観的に認識できなかったと見られます。それはCNN放送でも流されましたが、討論会直後に行われた民主党支持者の集まりにおけるバイデン氏の振舞いに現れています。また、討論会後初めてのテレビ・インタビュー(7月3日ABC放送)で、討論会の録画は視聴していないと述べていますが、本来「ダメージ・コントロール」のためにも討論会の録画を直ぐに視聴して、その後の対策に役立たせなければいけない筈ですが、「見たくないものは見ない」というインテリジェンスにおける初歩的誤りも犯していたようです。 また、先述したABC放送のインタビューでは、討論会では体調不良であったと言い訳をしていますが、12日前に外遊から帰り、6日間もキャンプ・デービッド(大統領別荘)に籠って準備したにも関わらず、あのパーフォーマンスでは大統領失格は明白です。仮に、軍最高司令官として重要な決断を迫られた時、或いは重要な首脳会談で、あのパーフォーマンスでは困ります。
第2に、大統領選撤退表明までに要した時間です。6月27日の討論会から8月19日の民主党大会開催まで53日間の内、27日を経過しています。民主党内からの撤退圧力、選挙募金の枯渇、民主党内の混乱などの圧力に耐えきれずに遂に立候補辞退となったのですが、この決断に無駄に時間を費やしたために、民主党の党内混乱に拍車を掛け国民に広く知らせてしまいました。また、新たな大統領・副大統領候補の選定と選挙戦にに使える期間を短くして、新候補のためにはただでさえ足りない期間を更に短くしてしまいました。 大統領選撤退の決断に至るまでに掛けた時間は、民主党の新たな大統領・副大統領候補にとってマイナスですし、また、この一連の騒動で、バイデン氏自身がこれまで50年を掛けて積み上げた政治家としての名声を毀損することにもなったのです。
このように、この一連の騒動では、バイデン氏の自分を取り巻く状況に対する客観的な認識能力の低下が見て取れます。
(2)しかし、バイデン大統領を取り巻く状況を、客観的に正しく認識できなかったのは、バイデン氏個人だけではなかったと思われます。選挙戦継続などの判断は、バイデン氏とその最側近の集団との合作だったと思われます。その意味で、バイデン氏側近も、状況を客観的に認識する能力が高くないと評価できます。つまり、状況を正しく客観的に認識するという、一種のインテリジェンス能力が、国内政治に関しては高くないことが露呈したのです。 そもそも、6月27日の討論会で露呈したバイデン氏の老化の状態は、大統領側近は、以前から知っていたのではないでしょうか。
3 米国政府の優れたインテリジェンス能力とのコントラスト
(1)ところで、米国政府は、世界最高ともいうべきインテリジェンス能力を保持しています。その政府の高いインテリジェンス能力と、今回のバイデン氏の立候補宇辞退に関連する低い状況認識能力とのコントラストが注目されます。
先ず、米国のインテリジェンス力は、対外諜報としては、諸外国の軍事政治経済社会情報を広汎に収集しています。その先兵となっている主な組織は、CIA(主としてヒューミント)、NSA(シギント)、NGA(イミント)、DIA(マシント)であり、対外諜報では対象国の国内政治状況まで詳しくフォローしています。 他方、自国に関連するインテリジェンス活動は、国家安全保障に係わる諜報に限定されています。つまり、スパイ対策、テロ対策、政府転覆活動対策、大量破壊兵器拡散対策、国際薬物対策など、米国の国家安全保障に脅威となり得る事象についてのインテリジェンス活動に限定されます。このインテリジェンス活動の主要機関がFBIの国家安全保障部門です。
つまり、米国のインテリジェンス諸機関は、米国の国内政治に関する情報収集は任務外なのです。従って、バイデン大統領とその側近達は、大統領選挙に関する意思決定は、インテリジェンス諸機関の支援無しに、自分達だけで行わざるを得ません。その結果の体たらくなのです。この事実から、逆に、大統領府による国際政治に於いて、インテリジェンス諸機関の貢献がどれだけ大きいか想定ができるのではないでしょうか。
(2)他方、全体主義国家或いは専制国家におけるインテリジェンス機関は、国内政治に関する情報も収集しています。それは、これらの国家のインテリジェンス諸機関では、政権を守ることが任務であるからです。従って、国内の反政府・反政権政治勢力の正確な情報を収集して、必要な対策(抑圧や弾圧)をすることが任務となります。
このように見ると、全体主義国家や専制国家における政権は、民主主義国家と異なり、国内の政治情勢に関する正確な情報を入手し得る立場にあると言えます。 但し、入手し得るということは、政権幹部が、現実に正確な情報を入手していることまでは保証しません。全体主義国家や専制国家のインテリジェンスには固有の弱点もあるのです。それは、政権最高幹部にとって好ましくない情報、不快な情報を報告した場合には、報告者の頸が飛ぶ可能性があるということです。これが、インテリジェンスに一定の偏向をもたらす可能性があります。
以上、「己を知る」ことの困難性について、感想と教訓を述べました。